2012年6月7日木曜日

どうなってるの?

お月様は定期的に満ち欠けし、夏は年に一度やってくる。とてもわかりやすい、波の上下だ。
ところが、技が身についたかどうかというのはそうでない。以前出来てたことが出来なくなったり、あるいは出来てたと思っていたのが実はぜんぜん出来ていなかったり、その波はもう行き当たりばったりだ。



さて不肖新弟子、元来運動嫌いであったにもかかわらず、杖に出会ってその考えを改めるに至ったが、その理由の一つは、始めた当初にチョーシぶっこいてたことと無縁ではない。あ、俺にも出来るじゃん、ならまだいいのだが、稽古会などに出かけて、同級の方々と共に稽古をつけて頂くと、こりゃもう、はっはっは、俺すごいかも、の世界だったのだ。

ところが、高段者の方々と共に稽古をすれば、そんな幻想は吹き飛んでしまうのであります。あれやこれやと問題点をご指摘頂くたびに、これはどうもいかん、と思い、以前出来てたように思っていたことも、出来なくなったりするわけで、なんだか前よりもヘタになったのではないか、とも感じる始末。

ところがこういうことは、高いところから見下ろしていないと分からないもので、当人は全く見当違いをしていた、という事が珍しくない、出来ることであっても、出来ないことであっても。これは武道に限らず、すべての学習とはそういうものだ。ただ、武道が他の学習と違うところは、実技だからごまかしが効かないことと、比較的、「そこは違う」と正直に指摘して頂けることである。

実際私は、仕事で私が教えるとき(無論、武道ではない)、比較的ズバズバと誤りを指摘してしまう傾向にある。それは商売上よくないと分かっていても、言わないわけにはいかないのだ。それでむくれられたら、ああそう人なんでしょうねで割り切ってしまうが、そういう人が、成長したりなにか物事を修めたというのを、不肖新弟子は見たことも聞いたこともないのでありました。

とはいえ、弟子を乗せながら適宜にガツンと指摘する、この呼吸というのは実に難しく、またそれには相性というのが必要なことを、経験上知っている。ゆえに逆の弟子の立場から見て、今自分がどの程度出来てるか、何がどうできないのかは、自分では分からないのだと思っているわけであります。

それでですね、ここはもう、自分はどうなってるの? と思いつつ、稽古に励むしかないのであります。
昔からよく言われる、実に当たり前の結論でありました。

ところでも1つ。
内田流短杖の杖は手に入れたし、実は元からもあったし、お道具はこれでよいのだが、さて本が見つからない。

唯一私が知るのは、神之田先生がお書きになったご本だが、版元の日本杖道会でも絶版の模様。
んで地元の図書館、勤務先の図書館、はては母校や東大、国会図書館まで検索したが、全部なし。

こりゃDVDみて、勉強するしかないなぁ。

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