2013年6月25日火曜日

評四種語

武道を始めてより後、体が動くようになってきた。
これは一般論としてよいことだろうが、私にとっては時に、良くはないことになり得る。

先日、仕事で地方に出かけた。常磐線の普通列車に長々と揺られたのだが、とある駅に停まった際の出来事である。

私は車両の端に座り、向かいの窓越しに駅のホームを眺めていた。斜め向こうのドアからは、何人かの老年婦人が降りていく。それを見ていたわけではなかったが、やはりそれとなく見ていた。

老人たちが全て降り、チャイムの音をきっかけに、ふと彼女らの座っていた席を見ると、風呂敷の荷物が残されている。刹那、私は飛び出して荷を取り、ドアにとって返して叫んだ。忘れ物!

向こうから引き返してくるのが持ち主であろう。すでにドアは動き始めている。隙間から荷を放り投げ、相手が受け取ると同時にピタリと閉じた。

もとの席に座った私が、どのような顔をしていたかは分からない。しかし、至って不愉快だったことは覚えている。
なにゆえかと言えば、私は山田風太郎先生並みの人間嫌いで、用もないのに人と関わることを、とにかく嫌うからだ。

無論、良き人に出会いたいという願望は強く持っている。しかしよろしき人とは最低限に、わろき人からは遠ざかりたい。悪しき者に至ってはなおさらである。
加えて時代が移ると共に、この社会のベルカーブは、中心がよろしきからわろきに移りつつあると見た。

それは金がなくなったからであろう。私はじめ普通の人間というのはしょうもないもので、聖賢にも悪党にもなれなくて当たり前である。要するによろしき人=悪くはない人か、わろき人=良くはない者にならざるを得ないのだが、お金は一切の汚濁を隠せる機能を持つから、あればどんなつまらない人間でも、よろしき人を演じうるのだ。

もっとも、全ての人間を一々つかまえて、4種のどれに当たるか調査することは出来ないし、無論そんな統計もない。だからベルカーブが動いたなどとは、論理的に言えることではない。しかし俯瞰する方法はある。その1つは、あなたバカでしょう、というのが前提の言説が、恥じらいも無く社会に流布していることだ。天然成分配合、のたぐいである。

もう1つは、これまた恥じらいも無く、サディズムを吐露する言説である。すなわちキラーなになに、のたぐいだ。
聴衆に対するキラーワードなどと、言う方も言う方だが、言われて何とも思わないのもどうかしている。相手をハナから見下し、食い物にしてやろうという宣言だからだ。こんな言葉が有り難がられるのは、多くが他者を、捕食したがっている現れであろう。

武道はその基本として、相手をよく見ることを教える、と私は理解している。何ら害意を持たぬ相手に、キルなどと言えるものではない、とも思う。ゆえに私は貧乏しても、せめてよろしき人に止まりたいと願っているのだが、世間はどうやらそうではないらしい。これでは武道と、格闘技・スポーツが同列視されるのも無理はない。

井上成美提督は、「軍人が平時から武器を帯びることを許されているのは、国家を守る責を担っているからだ」と、わざわざ訓示したという。同じく武道人が、本来禁止されている刀剣類の持ち歩きを大目に見られているのは、武道の精神性と武道人への信頼があったからだろう。しかし世間がかくあるようになったからには、今後は面倒な問題になってくるのではないか。

やはりこの面からも、無用な、人との関わりは、可能な限り避けるのが正解だろう。それが時として、良きこととして捉えられるようなことであってもである。戦時中は人殺しが美徳であるように、いかなる事象も、評価はその時の世間次第だ。勝手に体が動いてしまう私としては、動かす前、動かしつつある時にも、脳が働くようにせねばなるまい。それが今後の、課題の1つである。

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